精神科診断と偏見:黒人奴隷の逃走病

精神疾患は他の疾患同様、特定の症状をもって診断されるものであるが、その症状および疾患が「異常」であるというのはどのようにして規定されるのであろうか。例えば、幻聴や妄想は一般にもよく知られた「精神症状」であるが、一般集団においても数%の頻度でみられることが知られている (1) 。また、これらのいわゆる精神病症状は「正常」とは質的に異なっており、正常と病気の間には質的な違いがあると考えられてきたが、近年ではそれは連続的に分布し、正常か病的な水準かは量的な違いであると考えられてもいる (2) 。このような連続量を示す現象において、どこからを異常とするべきであろうか。また、仮に正常とは質的に異なる現象であったとしても、特定の状態を「正常」とし、その他を正常からの逸脱、すなわち「異常」と規定するのはどのようになされるのであろうか。精神症状の場合、その対象となる心理現象が異常であるか否かは、多分にその者が生活している社会における文化や規範に依存しており、その社会において適応的であるか否かということが一つの判断基準になっているであろう。

以下に紹介するのは、奴隷制が存在した19世紀のアメリカで、New Orleans Medical and Surgical Journalに掲載されたdrapetomaniaという「黒人奴隷においてみられる精神疾患」についての解説である。本文の内容は現代の私たちからみれば多分に差別的であり、人道的に問題があるものだろう。しかし、当時のアメリカ南部の文化や規範においては奴隷のこのような状態は非適応的で「精神疾患」としてみなすことが妥当だと考えられており、白人の医師たちは、(それが現代から見ると非常に差別的な価値観をはらむものであっても)真摯に治療に取り組もうとし、またそれが当事者の利益になると信じていたのではないだろうか。

この事象は、奴隷制があった頃のアメリカだからこそ起こったものであろうか。現在の私たちの「正常」「異常」という判断もまた、私たちが属している社会の価値判断の中でなされているならば、19世紀のアメリカの医師たちと同じ轍を踏む可能性は否定できない。これは直ちに現在の精神医療を否定する意図を持つものではないが、精神医療に携わる者は目の前の事象の「正常」「異常」を考える際、このことを心に留めておく必要があるのではないだろうか。(松長麻美)

  1. Nuevo R, Chatterji S, Verdes E, et al.: The continuum of psychotic symptoms in the general population: a cross-national study. Schizophr Bull 38:475-85, 2012
  2. Johns LC, Van Os J: The continuity of psychotic experiences in the general population. Clinical psychology review 21:1125-41, 2001

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精神科医療における患者の権利

精神科医療は、強制医療が法制化されていることと、社会的偏見が著しく強いという特徴から、医療サービスの消費者であるはずの患者の本来有しているべき権利が侵害されることが、個々の例において、また公的制度において認められています。

そこで、(1) 治療を受ける権利、 (2) 治療を拒否する権利、 (3) 精神科医療におけるインフォームド・コンセント、(4) 治療同意判断能力、(5) 障害者のノーマライゼーション、(6) 偏見からの解放の各点について実態把握、問題点の解明、解決方法の開発を行ってきました。

これまでわれわれは、精神疾患を有する人々への偏見は
(1) 「精神病者は判断能力に欠ける」という通念や (2) 疾患の特性に由来する否定的感情に依拠していると推論してきました。

そこでまず、治療同意判断能力の概念と評価方法の最近の動きについて概観し、また情報開示が法的権利を担保するに留まらず治療的意味を有することを述べ、独自に開発した評価手法の信頼性について報告し、最後に臨床現場におけるその使用方法についても生命倫理学的観点からまとめました。
特に治療同意判断能力を評価する構造化面接である Structured Interview for Competency and Incompetency Assessment Testing and Ranking Inventory (SICIATRI) はこの目的の評価法として世界の12ほどの尺度の一つとして認められています。

また、精神疾患、ことに schizophrenia に対する人々のもつ偏見の源泉のひとつは「精神分裂病」という名称にあることを示し、名称変更が偏見低減につながりうることを示しました。

患者の権利をめぐる研究課題でもっとも困難なものは安楽死である。
すでにわれわれは安楽死を認める考え方の裏に、個人の自立を尊重する心性があることを報告したが、今回は日本の安楽死裁判全事例を批判的に概観しました。
精神障害を有するものの家族が知覚する負荷は、症状の重症度よりGAFの低値で規定されることを見言い出しました。